勉強のやる気を引き出すのは大人(教師・先生)の仕事ではないと思う

勉強のモチベーション

勉強に限らず、いわゆる「学び」のモチベーションについて、多くの大人は勘違いをしているのではないでしょうか?

学びのモチベーションとか、勉強のやる気とか。それらは大人が子どもに与えるべきものなのでしょうか?

ネットを調べれば「勉強のやる気を出す方法」に関する記事はいくらでもあります。学生が自らの勉強のやる気を引き起こすためにそういうことを調べるのはいいとしても、

大人(親や教師)が子ども(という他人)のやる気を引き出すために一生懸命になるというのは、気持ちはわかりますが、不自然なことであると感じます。

何かを学びたいという意欲は、本来は自発的に生まれてくるものだからです。

「わからないことに直面する、それを知りたいと思う」

これが学びの原点であるはずです。

文字などにしても、いつのまにか読んで、書いているものです。最初のうちは左右逆に書いたりしながら、そのうちみんなの真似をして、ちゃんと書けるようになる。漢字だって知らない字が出てくると「読みたいなあ」という気持ちが当然段階的に出てくる。それはその子に「この漢字は自分が知らない字だ」という見分けがつく能力がすでに備わってるからにほかなりません。そしてその能力、だれがつけたわけでもありません。

それを、当人にその気がないうちから、学習、学習という形で能力をアップしてやろうとしたって絶対無理です。ご当人が不自由とは思っていないんですから

五味太郎著『大人問題』より抜粋

学び不在の学校教育

現代においては、「学び」と「勉強」は別物のようになってしまいました。それを推し進めてきたのが学校教育です。

学びたい子も学びたくない子も含めて、みんな一斉に同じ内容を教えます。決められた時間内は他のことをすることを認めません。

時間割で子どもの学びを管理します。今やっていることをもっと学びたい子も、チャイムが鳴れば止めなければなりません。

ひとつの技能に突出した能力を発揮する人間を育てるという観点は少なく、自分の得意なことを伸ばすという発想もあまありません。

すべての教科をまんべんなくできる子どもがそこそこ高い評価を受けます。

定期的に試験をして学びの成果を評価します。成績が悪いと進学に影響するというシステムになっています。

このような学校の性質を痛烈に批判した書籍がありますので紹介します。その刺激的なタイトルが『バカをつくる学校』です。


バカをつくる学校

30年間公立校の教壇に立ち、ニューヨーク州最優秀教師賞にまで輝いたジョン・テイラー・ガット氏が「義務教育」が真に求めるものを見つけた。義務教育は子どもたちに「チャイムによる思考中断」「クラス分け」「無関心」「感情的な依存」「知的な依存」「条件付きの依存心」「監視」を強いている。そんな教育に順応した子どもは「大人の世界に無関心」「集中力が長続きしない」「未来に対する認識に乏しい」「歴史に関心がない」「他人に対して残酷になる」「親しさや正直さを拒絶する」「物質主義的になる」「依存的、受け身、新しい挑戦に臆病」といった人間になる。自分の頭で考えない人間の生産工場…それが義務教育。日本の教育もまるで同じ惨状だ!!ニューヨーク州最優秀教師の全米覚醒のベストセラー。

近代学校のはじまり

学校の起源はメソポタミア文明とか言われていますが、近代の学校が生まれたのは19世紀に入ってからのことです。

ウィキペディアには次のように記されています。

19世紀に誕生し、義務・無償・中立性を基調とする近代学校は、その国の国語、国史、国民道徳の教育をメインにし、その国家の ”国民” を育成する装置として機能した。つまり、国民としての”アイデンティティの形成”が学校に期せられたのである。

日本においても明治時代にこの流れを受けて近代学校制度が確立されました。当時の国民としての”アイデンティティ”がなになのか、簡単には述べられませんが、

富国強兵が国是であった時代のことです。列強の植民地支配の拡大に対抗するためには、まずは基礎的学力を備え国を守ることのできる国民が必要であったはずです。

言い方は悪いかもしれませんが、上からの命令に従順に従って決められた作業を黙々とこなせるような人材が必要だったのでしょう。

協調性をもち和を乱さない者が望まれ、個性が強すぎる者や何かの能力が突出している者は扱いにくいと考えられていたのではないでしょうか。

その目的を効率的に果たすためには、子どもの管理や一斉授業は当然のことだったのです。

”スタートしたときの形”が世の中の変化に追いついていかないということは様々な分野で見られることですが、その最たる例が学校教育ではないでしょうか。

明治時代に完成した”カタチ”が現在もまだ色濃く残っています。一斉授業、集団行動、制服、校則・・・。中身は変化しているものの、大枠は変わらず残っています。

親の苦悩

このような世の中ですから、親が気にするのは子どもの自発的な学びではなく、学校の成績です。

そこに自発的な”知りたい”という意欲があるかどうかには関係なく、勉強をして良い成績をとらせること、受験に合格させることが重要だと考えてしまいます。

進学や就職に学校の成績が影響するという世の中ですから、これらは仕方のないことかもしれません。

親が自分の子どものことを、学校の成績というフィルターを通して見るようになってしまうというのは悲しことです。

教師の苦悩

苦しいのは親ばかりではありません。現場で大勢の子どもに授業をしている教師たちの苦悩もかなりものだと思います。

強制力をもってひとつの教室に集められた子どもたちに対して、彼ら彼女らが学びたくもないことを教える。それが仕事です。

これは簡単な仕事ではありません。

義務教育だけでなく高校でも状況はほぼ同じです。97%もの子どもが高校に進学する時代です。高校教師の方にはわかっていただけると思いますが、高度なことが学びたいから高校に進学したという生徒を探すのは難しいでしょう。

さて、教師の仕事です。児童・生徒が学びたくもないことを教える。

この仕事をうまくやっていくために、教師たちは教え方を研究・研鑽して教える技術を発達させてきました。

その中には「児童・生徒のやる気を引き出す技術」も含まれています。

よくできる教師とは、児童・生徒のやる気を引き出すのが上手な教師であることが多いのです。

当然ですが、そういう教師の授業の方が児童・生徒も楽しいわけですから、人気も出ますし成績も向上します。保護者からの評価も高くなります。

結論を言いますと、教師をやるならそういう教師になった方が気持ちよく仕事ができます。

いくら学校制度を批判したところで、目の前に児童・生徒が座っているのです。

チャイムが鳴るまでは授業をしなくてはなりません。退屈な授業をすれば児童・生徒はつまらないと感じ、あなたの評判は悪くなるでしょう。

それが現実です。自発的であるはずの学びを強制する学校システムは改善されるべきだと考えていますが、今のところその状況で授業をするしかない教師は苦しいと思います。

そのことは、教師を辞めた今の方が現役当時よりも強く思います。現役の教師であった頃はそのようなことを考える余裕もなく、直面する現実に対応していくのに精いっぱいだったからだと思います。

私の経験上言えること

私も生徒のやる気を引き出すためにあれこれ工夫してきました。

しかし、あるとき、生徒のやる気を引き出すのは私の仕事ではないと感じました。やる気とは本来、生徒の心の中で生まれてくるものであるのに、教師が一生懸命になって生徒のやる気を引き出させるというのは、なにか不自然だと感じたのです。

そこで私は、教室内にごく少数いるであろう、やる気のある生徒に向けて授業をすることにしました。

やる気のない生徒がいるのは仕方がないことだとあきらめ、それらの生徒のやる気を起こさせることは止めることにしました。

そうすることで授業が以前よりも退屈なものになるかもしれなかったのですが、それでもいいと覚悟しました。

そのようにして授業をするようになって、意外な結果となりました。

まず、やる気のない生徒のやる気を引き出さなければならないという心理的な圧力から解放され、私自身が自由になりました。

その結果、以前よりも身軽な気持ちで授業ができるようになりました。のびのびとした気持ちで授業が進みました。

そして、これが一番大事なことなんですが、以前よりも生徒の反応が良くなりました。私がやる気を引き出そうとしていた頃よりも、生徒がやる気になったのです。

おそらく生徒の目には、やる気を出させようと必死になっている私の姿は、白けたものに映っていたのではないかと思いました。

「やる気のない人は別に授業を聞かなくてもいいよ」というスタンスでいる方が生徒には好ましく受け入れられたようです。

授業の初めには、「寝ている人は絶対に起こさない」「やる気のある人に合わせて授業を進めていく」ということを生徒に明言しています。

また、「やる気がいつ起こるのかはその人のタイミングがあるから、今やる気がないのなら仕方がない。そのタイミングが来たらサポートします」ということも明言しています。

もちろん、やる気があるのに成績が上がらない生徒には、しっかりとフォローします。

これがすべての人に当てはまることかどうかはわかりませんが、私はこのようにして退屈な授業を少しだけ改善させることができました。

まとめ

学びとは本来、自発的なものです。学校教育では、その自発的なはずの学びが軽んじられ、強制的に一斉授業により教えるということを続けています。

かと言って、現実的には教師は児童・生徒に授業をしなくてはなりません。どうせなら児童・生徒が満足するような授業をしていく方がいいと思います。

学校で行われている教育がいかに本来の学びのメカニズムから乖離しているのか、ということを考えたうえで日々の授業の工夫をしていった方が、バリエーション豊富な授業展開ができるようになるのではないかと考えています。

本来の学びを重要視している学校についての記事!

とその関連書籍です!!

完全自由な学校サドベリースクール!教師やるなら知っておいてほしい


教育の完全自由化宣言! (人間性教育学シリーズ)


世界一素敵な学校―サドベリー・バレー物語

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