学びを強要する学校②学ぶ意欲は本来自発的に起こってくるものだ

学びを強要する哀れな学校②

学校教育の不自然さを解消したい

前回の記事で、大人が子どもに学びを強要していることについて書きました。

学びだけではなく、なにかに疑問を持つということすらも強要しています。

そして、その不自然なことを組織的に行っているのが学校教育なのです。

不自然なことゆえに、さまざまな歪が生まれています。児童・生徒や教師がその歪の中で、澱んだ水たまりに浮く濁った泡ぶくのように生気をなくしています。

私も以前は、いま私が指摘しているようなことを教師として実行していました。

自分が不自然なことを行っているという自覚はまったくなく、教師として当たり前の仕事をこなしていたにすぎません。したがって、私は現場でがんばっている教師を責めるためにこのような記事を書いているわけではありません。

学校関係者がそれらの不自然さが存在しているという事実に目を向け、その解消に向けて歩み出していく未来。これが私の描くビジョンです。

あるいは私の言っていることが間違っているかもしれません。

もしそうであったとしても、私の言っていることが正しいという可能性もある、という見方で少しだけ自分の教育活動を振り返ってもらいたいと望んでいます。

私の考えが、独善的なものであり考慮するに値しないものかもしれません。

それでも、ひとつの戯言として冷やかしで聞いてもらっても構いませんので、少しだけおつき合いください。

疑問を持つことを強要する学校

前回の記事で、絵本作家の五味太郎さんの『大人問題』という本から次の部分を抜粋して紹介しました。

学習はなにしろ疑問が起こったところからね、と言うと、今度は「疑問をもちなさい」と言い出す。これまた余計な教育があるのです。

たとえば森に行って、さあカブト虫を見ましょう、かと思えば海に行って、波はどこから起こるんだろう、空はなぜ青いんだろうか、虹はなぜ出るんだろうか。そんなこと、みんなで行って、わざわざ考えることじゃありません。団体で起こる疑問でもありますまい。

波が起こる仕組みを教えたいので、まずは「波はどこから起こるんだろう?」という疑問を押し付けます。

カブト虫に興味があれば自分で網をもって探しに行くでしょうし、それが無理なら親に頼んで買ってもらって虫かごで飼うかもしれません。

昆虫の特徴を教えるためには、カブト虫にまったく興味がない子どもにも、なんらかの疑問を持ってもらいたいのです。

大人たち、というか教師たちは、学習指導要領に従って教えなければならないことを教えるために、その一連の学びがスムーズにいくように、まずは子どもに疑問を持たせます。

そもそも学びたいという意欲を持っていない子ども相手に何かを教えるというのは、とてもとても難しい作業です。

それをやらざるを得ない教師の立場に立ったら、なんとかして子どもに疑問を持っていてもらいたいと思うのも当然でしょう。

疑問を持っている状態の方が、教師に対する食いつきも、知識の吸収もいいのはわかりきっていますから。

疑問を持つ権利

さらに『大人問題』から。

初期のころの学習というものは単に無駄なだけではなくて、むしろ害があると思っています。人間には「これ、なんだろう?」と思う権利があります。当然、義務ではありません。びっくりする権利、どきっとする権利、おもしろいなと思う権利。

そういうものが何もないうちから、おしべとめしべがどうのこうのとか、地球は丸いんですよ、なんて教えないでくれ、と思います。ね、興味深いでしょ、ほうら、驚いたでしょ、なんて軽くやらないでほしいと思います。「教わりたくないものは教わらないでいられる権利」が、すべて国民は法の定めるところにより、等しくあるように思います。あればいいのにな、と思います。

五味太郎さんは、かなり辛口の意見をさらりと述べられています。

私も教師時代、「ね、興味深いでしょ、ほうら、驚いたでしょ」というノリで授業をしていたことを思い出します。

学びたいとも思っていないだろう生徒たち40人を目の前にして、そうするよりほかなかった、という言い訳をさせてください 笑

冷静に考えてみれば滑稽です。学びたいと思っていない人を前にして、その人の知らないことを紹介する。

寝かけている生徒を寝ささないようにあの手この手を駆使して、注意をこちらに引き付ける。

そして自分のできる限りのエネルギーを投入して力説した挙句、「すごいだろ?」とドヤ顔を決める・・・。

もともと学びたいと思っていない人を相手にそれをするのです。しかも私が力説したことは、教科書にすべて書いてあるのです。書いていないことがあったとしても、ネットで調べればすぐにわかることばかりなのです。

先生は算数の授業を始める前に「みんな、足し算知りたいですか」と聞く必要がある気がします。よくわからないって子どもが言ったら、「とりあえず説明すると、こんなもんですけど、次に進んでいいですか」というぐらいな礼儀正しさがあっていい。それを突然「3+8=11です」、はい、次は生物、「おなかの中には、大腸があって小腸があって……」。

そんなこと、とりあえず知らなくても生きてゆけるのに、知らなくちゃいけないという前提で提示される足し算、大腸小腸はかなりつらいものがあります。知りたくなったら知ればいい、知りたいのにわからなければ、どんどん自分で学んでいって、ついには、杉田玄白みたいになって、『解体新書』まで行くなんて迫力、今の「とりあえずなんでも教えておく」体制では、なかなか期待ができません。

なんでもかんでも感想文

次の指摘もおもしろいので、少し長いですが紹介します。

運動会や遠足があって、ある子どもは文章を書くという形で押さえる、ある子どもは絵を描くという形で押さえるというのが、いわゆる個性というやつです。とても楽しかったから、それゆえケロッと忘れて「次、行こう」というタイプの子もいます。このほうがけっこう多そうです。

でも、そういう子も結局はつき合って作文を書かされる。で、無理無理「きのう運動会でぼくは三着でした。来年はがんばろう」とか「ケーブルカーが昇ってゆくのがおもしろかったです」なんて、しょうもないことを書く。それでも書くことを思いつけないで苦しんでる子に、教師は「なんかあるだろう、なんか。よく思い出してごらん」なんて言います。

この「しょうがないから書く」という作業を五、六回でもやらされたら、「文章ってめんどくせえなあ」と思うのが当然です。課題図書の感想文なんか書いてたら、「読むのも書くのもカッタルイなあ」って、絶対思うようになります。もったいないことです。

作文や感想文を書かされることによって、文章を書く能力を向上させる子どもがいるのは間違いないと思います。

教師も、書かせるしかない(そうすることになっている)から、それならできるだけ文章構成力がアップするように指導するでしょうし、そうするべきだと思います。

しかし、その一方で、五味太郎さんの指摘されるように、文章を書くことに嫌悪感を持ってしまう子どもがいることもたしかでしょう。

私は高校の教師をしていましたが、高校でもなにか行事があれば感想文です。人権学習、講演会、すべて感想文を書いて終わり。

子どもの頃から鍛えられている成果だと思いますが、それなりの文章を書く生徒も多く、中にはお手本のような素晴らしいストーリーを書く生徒もたくさんいます。

一方、他の生徒が何百文字も書いている同じ教室で、「とても感動した。僕も見習って人に優しくしていきたい」くらいしか書かない生徒も結構います。

学校システム崩壊の過渡期

以上述べてきたように、学校教育には不自然なところがとても多いのです。

というより、そもそもの前提が不自然なものだと思います。

「これなんだろう?」「なぜ、こうなるのだろう?」

このような自発的な疑問のタイミングを無視して、疑問と学習を強要する学校教育。

現場の教師が悪いわけではありません。そういうことに気づかずにいつまでも不自然なことを続けていることは良くありませんが、それはある程度は仕方がないと思います。

この学校教育システムの欠陥と老朽化については、さまざまなところで議論されています。

このままの流れで行けば、近い将来、学校教育システムは崩壊し、新しい教育システムが台頭してくるでしょう。

その新システムはひとつではないかもしれません。同時多発的に様々なアイデアが形になっていくような気もしています。

いまそういう時代の過渡期に教育関係者として存在している私たちには、その新時代の到来の時期を少しでも早めるという仕事があるように思っています。

自分が社会を変えるわけではなくても、社会の変化という大きな流れの中で自分にできることを積極的に行っていく。

私はそういう姿勢でありたいと考えています。

もしあなたも私の考えに共感してくださるのであれば、一緒にこの時代の変化の中を積極的に歩いて行きましょう。

力を合わせる必要があるときは是非手を取り合いたいものです。

ここまで読んでくださりありがとうございます。

この記事で紹介した本です。


大人問題 (講談社文庫)

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