学びを強要する学校①その結果、それは学びではなく滑稽な茶番になる

学びを強要する哀れな学校

しつけも教育もあってないようなもの

今から書くことは、私も以前は気づかずにやっていたことです。

現在もそれをやっている教師のことを責めたてるつもりはありません。

ただ、他の可能性もあるということに気づいてほしい。ただそれだけです。

そのうえで、なにを選ぶかはそれぞれの教師の自由だと思っています。

絵本作家の五味太郎さんの著書『大人問題』の一部を紹介します。

赤ちゃんはだれも、飲み方を教えなくてもおっぱい飲んでるし、そのうちコップで飲みはじめます。おしっこもうんちも、大人になって洩らしてるやつなんてあまりいません。もしいたら、別の問題です。すべてまさに自然のなりゆき、それを楽しく、穏やかに「お手伝いする」ぐらいなつき合い方で十分やっていけるはずです。「しつけ」なんて、本来的にはあってないような作業です。

人は必要なことは自然に学んでいくものである、それを適度にお手伝いするのが「しつけ」であり「教育」であるのだろう。

私はそのように考えています。

一度そのような考え方になると、学校教育で行っている授業やその他の活動の不自然さにとても違和感を持つようになりました。

学びの強要

さらに『大人問題』から。

文字などにしても、いつのまにか読んで、書いているものです。最初のうちは左右逆に書いたりしながら、そのうちみんなの真似をして、ちゃんと書けるようになる。漢字だって知らない字が出てくると「読みたいなあ」という気持ちが当然段階的に出てくる。それはその子に「この漢字は自分が知らない字だ」という見分けがつく能力がすでに備わってるからにほかなりません。そしてその能力、だれがつけたわけでもありません。

それを、当人にその気がないうちから、学習、学習という形で能力をアップしてやろうとしたって絶対無理です。ご当人が不自由とは思っていないんですから。

赤ちゃんが「早くかたいもの、噛みたいなあ」とは思ってないだろうし、「早く微分積分やりたいなあ」とうずうずしている一年生ってのもまずいないでしょう。その「準備がない」「やる気がない」のが罪だったら、歯がはえてないのは赤ちゃんの罪です。

学校では、このようなことをまったく考えずに(そう私には思えます)児童・生徒にものを教えています。

児童・生徒の「知りたいなあ」「学びたいなあ」という自然な気持ちのことはまったく考慮していません。

スタート段階がすでに、「学びたくない児童・生徒」なわけですから、そこから興味関心を持たせていって楽しく学ばせるというのは、かなりの至難の業、いや神業と言ってもいいくらいです。

こういう前提での学校教育ですから、教師のの言うことをきかない生徒がちらほら出てくるのも当然のことかもしれません。

あなたがもし教師なら、こんなにも神業的なことに自分は取り組んでいるんだ、と一度考えてみてください。

疑問をもつことも強要する

学習はなにしろ疑問が起こったところからね、と言うと、今度は「疑問をもちなさい」と言い出す。これまた余計な教育があるのです。

たとえば森に行って、さあカブト虫を見ましょう、かと思えば海に行って、波はどこから起こるんだろう、空はなぜ青いんだろうか、虹はなぜ出るんだろうか。そんなこと、みんなで行って、わざわざ考えることじゃありません。団体で起こる疑問でもありますまい。

これはとてもわかりやすい例ですね。まず疑問を持てと迫ります。これと同様のことが小学校のみならず、中学校や高校でも行われています。

このような疑問の持たせ方が小学生にはギリギリなんとか通用したとしても、中学、高校くらいになると生徒たちも簡単にはなびいてくれません。

そこで今度は、「受験のために」と言って生徒たちのやる気を出させようとします。

勉強しないと受験で困ることになるのは事実なので、生徒たちもあまり抵抗することもなく教師の言うことに従います。

抵抗していないと言っても、ほとんどの生徒は楽しんで勉強しているわけではありません。

そういう状態ですから、授業が盛り上がらなくても仕方ありません。授業中に寝る生徒が出ても仕方ありません。

それでも教師たちは授業研究に励み、少しでも生徒の興味関心を引き出す授業、面白い授業を目指します。寝ている生徒起こそうとします。

やはり至難の業であることには変わりありません。

学校システムの不自然さを解消しよう

私はこの学校の不自然さを解消するべきだと思っています。

ただ、学校システムは難攻不落の城のようになってしまっています。

長い年月変わることなく君臨してきた固定観念によって。

そして、それを不動のものにしているのは、まさに学校関係者の無意識的な思い込みというその固定観念なのだと感じます。

つまり、学校システムは自己保持的に自らを強固なものにしていくようになってしまっているのだと思います。

しかし最近の学校教育をめぐる諸問題と、それに対する世間の反応を見ていますと、このような学校教育の不自然さという難攻不落の城は、まもなく崩れ去る運命にあると感じます。

このままの流れで行けば、近い将来、学校教育システムは崩壊し、新しい教育システムが台頭してくるでしょう。

その新システムはひとつではないかもしれません。同時多発的に様々なアイデアが形になっていくような気もしています。

いまそういう時代の過渡期に教育関係者として存在している私たちには、その新時代の到来の時期を少しでも早めるという仕事があるように思っています。

自分が社会を変えるわけではなくても、社会の変化という大きな流れの中で自分にできることを積極的に行っていく。

私はそういう姿勢でありたいと考えています。

もしあなたも私の考えに共感してくださるのであれば、一緒にこの時代の変化の中を積極的に歩いて行きましょう。

力を合わせる必要があるときは是非手を取り合いたいものです。

ここまで読んでくださりありがとうございます。

この記事は長くなったので続編に続きを書きます。そこではさらに『大人問題』から、学びの強要について抜粋して紹介します。

この記事で紹介した本です。


大人問題 (講談社文庫)

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